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「子供ほしい」がまったくわからない わけでもなくなってきた話

最近、心境が変わってきていまして。これまではこの増田のように、「子供がほしい」って一言でいうけど人の人生背負えるほどの覚悟もないし自分の人生茨にする覚悟もないし日本は子育て優しくないし『家族』に幻想抱けないし、子供をモノっぽく扱ってるのがイヤだしそんな簡単に言えることじゃないんじゃないかと思ってた。長く。

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『自分の子供』という未知のものに対する不安と想像のできなさ、触れる情報のネガティブさに前向きを見出せなくて悶々。くどくどくどくどあーだこーだ並べながら「違うんじゃないかなー」というスタンス。この増田を読んで、自分がくどくどしていたのを見える化したらこうなるのか…と苦い気持ちになった。

 

こうやって考えて考えて「考えてもしょうがない産むが易し」に結するんだけど、それは解決にならないしブコメでよく言われている「産んだらデレデレになった」説なんて「いやならなかったらどうするんだよ…」と思うのは当然であまり意味のないアドバイスだしで、私は光明を見つけたことがない。だから欲しくない人を欲しいと思わせるのは土台無理な話で、そもそも欲しいと思ってる人しかそう思わせることはできないと思う。

自分で思考を煮込んでる人は、人の影響でパッと考えが変わるなんてよっぽどなことじゃないと今までの時間を惨めに感じるよね。(私のこと)

 

 

子供を一人の人間として尊重するからこそ自分を含めた世の中の至らなさが大きく見えて袋小路に入っていくような感覚はわかるしわかりすぎる。だから決断できない。あと考えてるの気持ち良くてクセになってたとこある。今思うと無理めの感情が先立って情報を肉付けしていってたんだろうな。

という私がそうでもなくなってきたのは、年取ったからなのかもしれない。わかっていた「考えてもしょうがない」が腹に落ちたというか。みんなそこまで正しく生きてないし、逸れたからって関係ない人がしぬわけでもなく。なんか誠実にかしこまって青かったのかなーとかつての気持ちを遠くに見る感じ。

プラス…「暇だな」と思うようになったのも大きい。仕事が安定して、衣食住に困らずイベント事は今までのをまた通るだけ。思いがけない事件や楽しいイベントはよそが起こしてくるもので、自分の人生はそう変わるものじゃないのがわかるというか。ゼルダの続編とか新作のエヴァはとても楽しみだけど、まあその楽しさも想像の範疇なんだろうなって。

だから、良いことも悪いことも流されるままその都度対処してやるしかないし、それで責められることもないし、最期「子供育てなかったなー」と思うのはいやだ。もしできないならできないで、それは全然いいんだけど。 

 

だから、自分の人生の彩りとして言う『子供がほしい』という気持ちがわかってきたってことなんだと思う。子供の性格や人生と真正面に向き合わないのを不誠実だとしていたけど、いい意味で「それはそれ、これはこれ」のバランスがとれるようになったというか。自分の無責任さであるとか、どうしようもできないこと、どうにもならないことを認めて、抱えて生きていくと留まることが少なくなるのかも。ほかの人は特に考えたりしないで「そりゃーそうでしょ」となるんだろうけど、自分の中で咀嚼して飲み下してやっと決めたい人もいるし、すごく面倒だな…と自分でも思う。

これは時間かけて経験から学んだ愚者の姿と人の目には映るのかもしれないけど、自分としては落ち着くところに落ち着いた気がして気持ちが軽くある。